【解説】一澤帆布(現一澤信三郎帆布)の相続権争いの流れをザックリ整理してみた

一澤信三郎氏と一澤信三郎帆布のカバン

先日、一澤信三郎帆布のバッグをネットで購入いたしました。

大変丁寧な縫製と奇をてらわないデザインで大変満足度が高い買い物になりました。

鞄のデビュー戦は親戚の葬式になったのですが、黒を選んだおかげで葬式の場でも浮くことなく、むしろこじんまりと引き締まった印象で、スーツとの相性も良かったと思います。

さて、この一澤信三郎帆布ですが、現在の知名度を獲得するに至ったのはカバンの品質の良さだけではありません。

そのきっかけは何といっても骨肉を争う相続争いです。

今回は、一澤信三郎帆布を理解するためには欠かせない相続争いに関して、情報を分かりやすく整理してみようと思います。

一澤信三郎帆布物語 (朝日新書)

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登場人物

  • 一澤信夫氏:一澤帆布工業の先代社長(三代目)。事業継承のため1983年には社長を三男信三郎氏に譲っていた。2001年3月死去。
  • 一澤信三郎氏:一澤家三男。朝日新聞に就職後、1983年から父に代わり一澤帆布四代目社長に就任。後に一澤信三郎帆布を立ち上げ社長に。
  • 一澤信太郎氏:一澤家長男。東海銀行に勤めていたが父・信夫氏の死去に伴い、一澤帆布工業の経営権取得を画策。一時は一澤帆布社長として就任。
  • 一澤喜久夫氏:一澤家四男。先代のもとで一澤帆布の商品を作り続けてきており技術力は兄弟随一で受賞歴も多数。経営権争いの中心ではないが、技術指導者として経営上のキーマンに。
  • 一澤恵美氏:三男一澤信三郎氏の妻。弁護士に預託されていた第一の遺言にて相続対象と記されていた。逆転勝訴のキーマン。

一澤帆布(一澤信三郎帆布)の相続騒動の概要

この一澤帆布のお家騒動は当時テレビや新聞等でも大きな話題になりましたが、とにかく話が入り組んでおり分かりづらいので、ザックリと流れをまとめてお伝えしようと思います。

一澤帆布三代目一澤信夫氏の死去と一枚目の遺言状

2001年3月、一澤帆布三代目を勤めあげた一澤信夫氏の死去に伴い、顧問弁護士に預けられていた遺言状(第一の遺言)が開封されました。

そこには、一澤帆布工業の発行済み株式の67%を1983年から社長を務める三男の信三郎夫妻に、33%を職人として一澤帆布を支えてきた四男喜久夫氏に、銀行預金等の資産を長男の信太郎氏に相続すると記載されていました。

つまり、最初の遺言状では、それまでかばん屋の経営に一切タッチしていなかった長男信太郎氏に店の権利は残さず、三男の信三郎氏に引き続き経営を任せる算段になっていたわけです。

非常に自然な内容だと思いますよね。

長男一澤信太郎氏が二枚目の遺言状の存在を主張

長男一澤信太郎氏

しかし、2001年7月に長男信太郎氏が、実は別の遺言状を預かっていた(第二の遺言状)と主張。

その内容は、長男信太郎氏と四男喜久男氏に合計62%の株式を相続し、長年社長を勤めてきた信三郎氏には今後一切経営にタッチさせず、長男である自分が経営権を相続するという内容でした。

第一の遺言状が1997年の作成、第二の遺言状が2000年の作成で、遺言状の作成日だけで見れば第二の遺言状が有効となってしまいます

第二の遺言状の捏造疑惑

この第二の遺言状は、印鑑も「一澤」ではなく先代が頑なに使いたがらなかった「一沢」であったり、作成当時すでに信夫氏は脳梗塞で正常な意思表明ができる状態ではなかった点や、顧問弁護士がいるのに預託されていなかった点など不審な点が多くありました。

その怪しさから、捏造かもしくは信夫氏が病で意思不明なのを良いことに勝手に作成したのではないかという疑惑が持たれたのです。

まさかの敗訴で信三郎氏追放

この第二の遺言を不服として信三郎氏は裁判所に遺言状が捏造であると訴えます。

しかし、2004年に第二の遺言状を偽物と断定するには証拠不足ということでまさかの敗訴

そして、裁判所の判断を受け第二の遺言が有効化し、信三郎氏は会社を追い出されてしまいました

そして、信三郎氏が会社を追い出された後に設立したのが現在の「一澤信三郎帆布」です。

一澤信三郎帆布のロゴ

一澤信三郎帆布は、一澤帆布と通りを挟んでほぼ向かい側に店舗を構え営業を行っていました。

長男信夫氏による経営で一澤帆布はガタガタになり大失速

当時一澤帆布で働いていた職人は突然現れて経営権を奪い取った信太郎氏のやり方に反発し、なんと全員が信三郎氏の新会社についていきました

熟練した職人を失った一澤帆布は、新たに職人を雇用・育成する必要が発生してしまいました。

さらにお寺や商工会などの地元関係者や、帆布の納品元である朝日加工株式会社をはじめとした多くの取引先も長男信太郎氏の行動を非難し、一澤帆布との契約を次々と解除。

契約を解除した旧来の取引先はその後、一澤信三郎帆布との契約を選びなおしました。

一澤帆布は、一澤帆布に残った四男喜久男氏の技術指導により、なんとか鞄の製造販売は継続しましたが、一般的に閉鎖的だと言われる京都において、お寺や商工会など町の人々を敵に回してしまった信太郎氏による経営はうまくいかなかったそうです。

信三郎氏の妻名義で再度訴訟

三男一澤信三郎氏とその妻

一澤帆布を去った三男信三郎陣営も諦めたわけではありませんでした。

信三郎氏を原告とした訴訟に敗訴した後、2006年には妻の名義で再度訴訟を提起します。

この裁判は、相続人に信三郎氏だけではなく、信三郎氏の妻も含まれていたため妻の分の請求権が残っていたことが幸いしたのです。

裁判では、地裁で一度敗訴するも、即控訴し、2008年11月、大阪高等裁判所が「第二の遺言状は偽物である」と認定し逆転勝訴。2009年6には、最高裁も高裁の判決を支持したため判決が確定。

長男・信太郎氏の相続は無効となり、信太郎氏の株式保有割合を背景に決議された信三郎氏の解任も、議決権不足により取り消しという判決が下りました。

信三郎氏の経営復帰とその後

そして、2009年に晴れて信三郎氏は一澤帆布の経営に戻ったのです。

その後、2011年には一澤信三郎帆布の1ブランドとして「一澤帆布」が復活

店の立地についても元の一澤帆布の店舗に復帰し、5年ぶりの完全復活となりました。

その後も信太郎氏から信三郎氏への訴訟が何度か提起され、一部では信三郎氏サイドが敗訴した判決もありましたが、すでに手は打ってあったため経営権には影響はなく、現在は信三郎氏を大株主としてようやく平穏な日々を取り戻しています。

なお、相続当事者ではあるものの職人気質で経営権争いの中心にはいなかった四男喜久夫氏は、2010年に一澤帆布を離れ独立

京都東山の一澤帆布のすぐ近所に「㐂一澤」というバッグブランドを立ち上げ、一澤信三郎帆布とは一味違った商品を製造・販売しています。

四男喜久夫氏の「㐂一澤」

元々、喜久夫氏は一澤帆布の製造責任者ポジションとして独創的な商品を開発し、数々の賞を受賞してきた実績があるため、「㐂一澤」のカバンの品質も折り紙付きだと言われています。

まとめ

一澤信三郎帆布を語るうえで外せない相続争い。

複数回にわたる複雑な裁判や、兄弟の思惑など非常に分かりづらく、理解しづらいためここまでかみ砕くのも苦労しました。

拙文ではありますが、一澤帆布の歴史を知る一助になれば幸いです。

完全に史実と一致するわけではないですが、池井戸潤氏の「かばん屋の相続」という小説は、この複雑な相続争いを上手にストーリーにまとめ上げていると思うので、フィクションではありますが当時の空気を感じる意味では非常に良い文献だと思いますので、ご興味があれば是非ご一読ください。

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